top of page

第01回 アジアナンバーワンを目指して ANA 大橋会長



ANAが見てきた20年


ANAにとって中国はプロジェクトの中心地、などというような存在ではない。なぜなら、ANAは何十年も前から中国を視野に入れて活動してきたからだ。アジアナンバーワン、そのためにはまず中国へ。最初からANAのキーワードは「中国」だったと行っても過言ではない。


陸・海に続く日本発「空のシルクロード」。その実現は、実はもう間近なのかもしれない。いつかきっと、空を見上げると「シルクロード」が見える日が来るはずだ。


戦時下の思い出


――大橋会長は中国東北部で幼少期を送られたそうですが、中国語は覚えていますか?


いいえ、残念ながら覚えていません。中国で生まれて6年間過ごしましたが、小学校は行ってないんですよ。次の年に日本に戻ってきて、小学校に行こうとしたら栄養失調になってしまいましてね、1日通っただけ。それで1年休学してもう一度入り直しました。


――当時の中国の思い出は?


印象があるのはハルピン(哈爾濱)だけです。私の生まれは1940年で、5歳の夏までジャムス(佳木斯)にいましたが、それまでのことをほとんど覚えていない。ちょうど、8月9日にソ連が旧満州とソ連の国境を越えて来て、夜中に爆弾がどんどん落ちてくる。さあ逃げなくちゃいけないということになって、そこからは覚えています。ハルピンに行き、1年3カ月くらいしてから船で日本に戻りました。1945年の8月9日ジャムスからハルピンに逃げて、最初は牡丹港に行こうと思ったのですが、ソ連がもう押さえていて引き返してハルピンに。父がたまたま商売をしていた関係で、ハルピンに知り合いがいてかくまわれたのです。子どもはいいけれど、女性は見つかると大変なことになる。母は、朝、市場で饅頭(マントウ)を売り、夕方に帰ってくるという生活で、隠れ家と市場の道しか知らなかった。父の知り合いの家族は女子供しかいなくて、男は兵隊に取られ、その頃はもうソ連の捕虜になっていました。母と私は昭和21年の11月18日に、日本に戻ってきたんです。


――大橋会長が全日空に就職後、再び中国に行ったのはいつですか?


1988年か89年、全日空の宣伝部長をしていた頃ですが、作家の小松左京氏、大阪で有名な落語家の桂米朝氏と一緒に、大連の日本人会で落語の公演をやるというので行きました。それが日本に帰って来てから初めてですね。


大連は父と母の新婚旅行の地だったんですよ。両親が泊まった宿を訪ねてみたら、建物はまだ残っていました。10年後には、もう取り壊されてしまっていましたけど。


全日空入りのきっかけ


――全日空は、どういう経緯で中国と強いつながりを持つようになったのですか?


私が慶応義塾大学の学生だった時、ゼミの先生が石川忠雄教授(のち慶應義塾大学塾長)で、中国の専門家でした。中国現代史(中国共産党史)という授業を受けて、たまたまこの科目の成績が良かったものだから、石川先生のゼミに入ったんです。卒業論文のテーマが「日中貿易論」ということで、勉強はしたけれど資料がまったく見つからず、家に帰って父に相談したら、郷里の岡山県出身の方で全日空社長の岡崎嘉平太という人がいるから、会いに行ったらどうだと言われましてね、会いに行ったのが、全日空に入るキッカケなんです。岡崎さんが2代目社長で、日中LT貿易を支えた人でした。論文のことはともかく、私はこの会社が気に入りました。当時、岡崎さんは周恩来総理と親密にしていて、入社後に聞くと、岡崎さんと周恩来氏の公式会見は18回もあったそうです。


岡崎さんと周恩来氏との写真は、たくさん残っています。岡崎さんを囲んで食事するような時には、必ず周恩来氏の話が出ました。


中国でそこまで有名な人とは思わなかったのですが、日本国際貿易促進協会や日中経済協会のミッションで訪中し、江沢民氏や朱鎔基氏に会見すると、必ず岡崎さんの名前が出る。「井戸を掘った人」のことを忘れないと言うのです


岡崎さんがいつも「これからの全日空の社員は、アジアの発展のために働いて欲しい」と遺言のように口にしていました。当然、アジアの中でも重点は中国だった。私が社長に就任した頃に思ったのも、ANAグループの長所はやはりアジア・中国だろうと。そこに特化し、中国を中心に路線を張ろうと考えていました。中国とのつながりは、岡崎さんが道を開いてくれた遺産みたいなものですね。


――中国の長所・短所はどういうところだと思いますか?


やはり発展の途上にあるわけですから、いろいろ課題はあるかと思いますが、本当に良くなりました。昔は、我々が思っている「サービス」とは違っていましたね。「気配り」というのかな、昔の人は笑顔がなかった。日本人が多い北京でも、長富宮ホテルのショッピングセンター内にある店に行くと、カウンターの受付が逃げちゃうんです。今は全然違いますね、変わりました。

全日空では現在、上海でキャビンアテンダントを採用していますが、最初の採用では、「なんで笑わなくてはいけないの?」というところから始まった。日本人は「笑顔で」といえば笑顔になるが、中国人は納得させないと笑顔にならない。ああ、文化やしきたりが違うんだなあと思いましたよ。プライドが高いんですね。けれども、納得すれば良さを発揮してくれる。その個性を活かそうと思った。納得してもらう訓練は時間がかかり、苦労したこともあるけれど、やれば日本人よりサービスが良くなる。今、117人の中国人キャビンアテンダントがいます。やはり「お仕着せ」ではダメなんだと学びました。


北京オリンピックに向けて


――2007年、全日空は中国線就航20周年でした。これからは中国の何に注目をしていますか?


全日空は、2010年をめどにアジアでナンバーワンになりたい。それを謳い文句に頑張っています。2010年には、羽田に滑走路がもう一本増え、国際線も増やせますから。一番の理由は、岡崎さんが言ったように「アジアのために」という願いがあるからです。ANAはオール・ニッポン・エアウェイズだが、エイジアン・ニッポン・エアウェイズ、つまりアジアの中での日本の航空会社だと私は思っています。もうひとつは、それにも関係しますが、岡崎さんが「井戸を掘った」中国とのつながりがある。だからJALのまねをせず、ANAらしさを出したい。総合商社ではなく専門商社的なところを育て、大きく安定したい。ANAらしさは中国を中心としたアジア方面への強みです。中国を中心に、人の交流・物流が飛躍的に増えている。大きなビジネスチャンスです。


――全日空の中国線は、かなりの数が飛んでいますね。


週308便(香港含)が飛んでいます。上海航空や中国国際航空とのコードシェア便を入れると、684便です。JALにやっと追いついたんじゃないかな。


――ANAというブランド名は日本人には浸透しているが、中国人にはあまり知られていない。全日空とANA、どちらの呼び名が良いのでしょう?


中国では、「全日空」に統一しています。日本においては、社内ではANA(エー・エヌ・エー)で統一しています。中国では「全日空」のほうがいいでしょうね。


――今年は北京オリンピックがあります。特別なプロジェクトは?


我々はオリンピックのオフィシャルスポンサーになっていますから、チャーター便等も含めいろいろなことをイベントとしてやっていこうと思っています。例えば福田首相が訪中し温家宝首相と会見した時も、北京の新空港だけでなく、北京市の南にある南苑空港を使って羽田間を結びたいという話がありました。北京オリンピックの開催に間に合わせるのは大変でしょうが、ぜひやりたいですね。このように、やりたいということはたくさんある。昨年、日中国交正常化35周年で、日中文化・スポーツ交流年事業でも、イベントは300ほどもありました。全日空大連マラソンも、もう20年やっています。今年は日中青少年交流年でもあり、お互いに人の行き来を増やすために、便やチャーターを増やしたりするようなことは当然あると思います。


――中国の富裕層を顧客として獲得する工夫は?


中国では、富裕層が桁違いに増えている。その数は5000万人を越し、年毎に増えている。そういった層から、値段は高いがサービスが圧倒的にいい、という評価を得ることができれば、高い顧客満足度を日本の航空会社は得ることができます。我々も、ビジネス層を中心に富裕層をお客様として獲得したいと考えています。そのためには機材やすべての面でサービスを向上させなければならない。自分たちの品質には、自信がありますし、今年も新しい路線を開拓したいと考えています。


中国から日本に来る人は、割合としてまだそんなに多くありませんが、倍々ゲームで伸びています。

――週600便以上を飛ばし、経営面ではどうですか?


中国路線は黒字です。国際線は今年で22年目ですが、最初の18年間、国際線はずっと赤字でした。4年前に少しだけ黒字になりましたが、これは中国路線のおかげです。今後は貨物と国際線旅客が中心となっていくでしょう。国内線は日本の人口が減っていますから。


今後は、貨物と国際線で、国内線と同じく7000億まで売上を伸ばしたい。


夢は空のシルクロード


──国際企業として、日中友好の架け橋として、今後の夢はなんでしょうか


アジアでナンバーワンというのは、中国だけでなく東南アジア・極東・中央アジアもある。今は中国が圧倒的に多いが、インドにももっと路線を開きたい。将来は極東のハバロフスク、ウラジオストクにも飛ばしてみたい。ウラジオストクと中国は人の行き来が盛んで、ロシアの飛行機は満席らしい。全アジアに路線を開いていきたいのです。


夢は、「空のシルクロード」を実現したいということです。陸と海はあるが、空はまだないですからね。


──中国での成功談・失敗談をお聞かせください。


中国での失敗はいっぱいありますが、やはり文化の違いからは教訓がたくさんあります。日本人がこうだから、中国人もこうだと思ってはいけない。


そういう意味では、共産党の人民教育というのはすごいですね。13億人を一つの国にまとめるのは、生半可なことではないでしょう。胡錦涛主席も温家宝首相も、とても上手ですね


──中国人スタッフと日本人スタッフでは、どう違いますか?


大きな違いは感じないが、中国人はやはりプライドが高い。タイも同じで、タイでは人前で怒ってはいけない。中国ではどうか、怒ったことがないから分からないが、日本人は人前で怒ったほうがいいと思っているくらいだ。


私は、は三勿三行(さんこつさんぎょう)をモットーにしています。三勿とは、怒ること勿れ、恐れること勿れ、悲しむこと勿れ、三行は親切、正直、愉快です。だから、なるべく怒らないようにしているんです。


──最後に一言。


今までと違うのは、明らかに風が順風になっていることです。これから中心になっていくのは日中両国の関係でしょう。日本にとっても日中関係が中心事項です。アメリカ、ヨーロッパともつきあっていかなければならないが、今までとは比重が違う。中国には期待しています。


中国は特色のある都市が多いですね。これから成都なんかにも飛びたいと思っています。ハルピンにも飛ばしたいが、なかなか需要と供給が追いついていません。冬は寒いですし。


ひとつひとつの街、どこもおもしろいですね。


──「空のシルクロード」、ぜひ実現してください。今回はありがとうございました。


インタビュー・メモ


非常に落ち着いた「親しみやすい人」だと感じた。2007年は10回ほど中国に行ったという大橋会長。アジアナンバーワンという高い理想とまだまだこれからという謙虚さ、中国人である私の立場から言えば率直でもあり「親しみやすい人」というのが一番の印象だ。

今年は日中平和友好条約締結30周年、ANAと『月刊中国NEWS』は同じ日中友好という理想を持っている。大橋会長はインタビュー後、「一緒に頑張りましょう」と言ってくれた。その言葉に感動すると共に感謝の意を表したい。


インタビュアー:『月刊中国NEWS』 編集長 張一帆

『月刊中国NEWS』 08年3月号掲載

bottom of page