

華やかな世界帝国 唐王朝
唐(618~907)の前期は、中国史上最も輝がしい時代の一つだ。再大の特色は、国際色豊かな世界帝国だったことだろう。周辺各地との交流が、 さまざまな人、物、宗教、文化を都・長安に集めた。阿部仲麻呂が出世したように、官僚ポストも外国人に門戸が開かれいた。経済や産業の発達とともに 文化が花開いたが、その唐文化の華こそが詩なのだ。

アジアの中心都市 長安
唐の都・長安(現在の陜西省西安)の城壁は、東西が10キロ近く、南北が9キロ近くあり、現存する明代の城壁より10倍ほど広い。 最盛期の人口は百万人を超えた。道路が基盤の目のように走り、西門はシルクロードの東の起点である。日本を含む周辺諸民族の使節や留学生、 東西交易に従事する商人、異民族出身の武将など、外国人も多く住んでいた。
名君から暗君へ 玄宗
姓名は李隆基。685生~762沒(在位712~756)。唐建国からほぼ百年後に即位し、政局の混乱を収め、改革を行った。治世の前半は唐の最盛期を現出した名君 であり、音楽にすぐれた芸術家でもあった。しかし次第に政治に倦み、楊貴妃を寵愛してからはますます政治を願みなくなる。755年に安禄山が反乱を起こすと 蜀へ逃げ、粛宗に譲位した。長安帰還後は半ば幽閉さえれ、寂しく病死した。

傾国の美女 楊貴妃
玄宗の息子の妃だったが、聡明で歌舞にすぐれ、玄宗の目にとまった。いったん出家して女道士となったのち後宮に入り、玄宗の寵愛を一身に集めた。 やがて貴妃(皇后に次ぐ地位)になり、一族の楊国忠は宰相になった。安史の乱で玄宗とともに蜀へ逃げる途上、兵士たちが楊国忠を殺し、楊貴妃の死を要求 したため、くびり殺された。中国四大美女の一人だが、当時の美女の基準はよく言えばグラマー、悪く言えば太めだったのは、よく知られているところ。

歴史の転換点 安史の乱
755年に節度史(辺境守備の長官)の安禄山が挙兵し、その死後部下の史思明が引き継ぎ、763年まで続いた反乱。安禄山は西域民族の混血だった。玄宗 や楊貴妃にとり入り強大な兵力を有したが、楊国忠と対立したため「君側の奸を除く」と称し、長安を占領したが、757年に部下に殺された。唐はこの 乱を境に下り坂へ向う。そして李白も、従軍、敗戦、逮捕、死刑宣告、流罪、恩赦という激動を体験することになった。

李白の故郷
李白は西域生まれともいうが、蜀で育った。現在「李白の故郷」である四川省江油市には史跡が残る。

李白の家族・子孫
李白は30歳前後で安陸(湖北省)の許氏を娶り、一男一女を産んだ。息子は明月奴といい、娘は嫁いで早く死んだ。また、南陵(安徽省)で劉氏と一緒に なったが、別れた。次に山東で家庭をもち、頗黎という子ができた。最後に宗氏を娶った。子供に平陽、伯禽という姉弟がいるが、どの妻が産んだ子かよく わからない。
伯禽は官に就くことなく、李白の死から30年後に死んだ。一男二女がいたが、息子は父の死後故郷を出たきり行方不明。その妹二人は農家に嫁いだ。その後、 李白の孫たちがどうなったかはわからない。

李白の墓
李白は、安徽省当塗県で亡くなった。李白の死後数十年して、役人として赴任した范伝正という人が、李白の孫娘を探し当て、その願いで李白が愛していた青山 の麓に改葬したという。現在、墓園は一般公開されている。
また、李白が酔って長江に映る月をとろうとして溺死したという采石磯には広い公園が整備されており、園内には衣冠塚や李白像がある。長江沿いの岩「聯璧台」 は李白が長江に飛び込んだ所だという。